いわゆる自虐史観により、朝鮮人の言い伝えこそが正しい歴史を物語っているとするのが、現在の日本の教育であり、これまでテレビで伝えられてきた歴史というものであった。けれど、よく考えてみるとおかしいことがたくさんあり、それには何か意味があるのではないかと気づく人も多いだろう。
それが、「儒教における歴史」である。
大義名分ともいうが、
「歴史の書き換えこそが為政者の行う最初のことであり、王が自分とその家系こそが神の子であるとして勝手に歴史書を太古の昔から作ってしまう」
というのが、よく知られている儒教を用いた歴史の作り方である。
最近でも、韓国では職を辞した大統領がたくさん逮捕されている。これも、いわゆる大義名分主義により、これまでの政治が悪かったことにする工作の一環である。もちろん本当に罪を犯しているのであるが、韓国では権力を持ったほとんどの人が権力を使って罪を犯しているので、すぐに犯罪者にすることができる。
現在の韓国の大企業、財閥と呼ばれる巨大な企業のトップは、おおかた逮捕・検挙歴を持つ。だいたいは脱税である。ところが国家企業の大株主でもあり権力者のため、収監されてすぐに恩赦が与えられ、スピード釈放されるのが韓国という国である。
そのような「都合の良い歴史の書き換え」が韓国・朝鮮では太古から行われてきたために、周囲の国と歴史がズレてきてしまった。その一つが、関東大震災である。
韓国の文化人いわく、真の謝罪をするには歴史の嘘を全て吐き出さねばならないらしいが、よく聞くと日本の歴史は全部嘘で、韓国の歴史こそが正しいのだという。何をそんなむちゃくちゃな、と思うか思わないかは、その人が正しい知識と教養を身につけているかによる。
某鳩山幸のように、韓流ドラマの俳優が好きだからという理由で、なんでもいうことを聞きますというのは、知識も教養もないに等しい。そして色に狂ったと言われても仕方がない。
さて、関東大震災における「朝鮮人殺害」について、簡単にまとめていこう。
あったかなかったか、ではなく、韓国の歴史観をうのみにするべきか、否かを考える機会になれば幸いである。
以下の文について見てみると、一つの理解が得られる。それは、当時無尽蔵に朝鮮人が居たわけではなく、1万人であったこと。

図について、よく見てみると、9800人というのは、数字として挙がっている人数で、「被殺害テロリストを含む行方不明約800人前後」というのは数に入っていない。
また、朝鮮人ももちろん震災で被災して死亡、もしくは行方不明になっており、その人数が、およそ2770人に上っている。
京阪地区の人口は1175万人で、死者・行方不明者合わせて104619人。0.89%が亡くなった計算。
朝鮮人が9800人で、2770人被災死とすると、28%も死んだことになる。これは死亡率が高すぎる。0.89%だとするなら、87人が妥当。
9800人から、保護された6797人を引いた3003人から87を引いた2916人よりも多い人数が殺されるはずがない。
警察による認定された殺害者数は233人であるが、最大に多く見積もると、2916人の死者数であったと推計される。
これは、吉野作造の調査である2613人に近い数字となっていて、吉野作造の調査は、自警団などが殺害したものの闇に葬られてバレなかった分をも調査して計算に入れたものと考えれば、233人より多いという部分は信ぴょう性があると言える。警察による認定数233人には認定できなかった取りこぼしが無かったとは言えず、私は「233~2916人」と考える。
大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査による、6415人という値は、最大見積もりの2916人すら把握できていない、いわゆる多く見積もりたい立場からの「理想的」数字と言える。
参考)
日教組 教育研究全国集会 「約6600人を前提として中学生に教える」
「およそ7000人」(清水書院「新中学校歴史」)
「6000人以上」(東京書籍「新選日本史B」)
「約6700人」(実教出版「高校日本史A」)
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100124/edc1001242157001-n1.htm
その後、関東大震災のあった大正12年をはさんで、さらに日本への渡航は増え、
1922(大正11) 5万9865 2万3989 朝鮮の水力電気調査開始。日本への自由渡航制 (渡日制限解除)
1923(大正12) 8万0617 2万0752 9/1関東大震災。大逆(朴烈)事件
1924(大正13) 12万0238 3万9621
と、2回目の「渡日制限」が行われている。
さらに言うと、日本本土への移民を抑制する政策に対し、「釜山港で渡日制限撤廃を訴え5万人集会」が起こっている。
これは、「李容九:一進会らが日韓併合運動。脱両班支配に日本利用」とあるように、朝鮮本土の身分支配からの脱却が一つの理由であった。
朝鮮では、国民の半分が奴婢(俗にいう奴隷)であったこと、朝鮮は中国に倣ってとてもメンツを大事にする文化だったことから、身分はとても大事なことだったので、日本に逃げてきたという表現が正しいのかもしれない。
人数だけを確認しても、日本が強制労働や搾取、人の売買によって移民が行われたというのが、あり得ないことだと分かるであろう。
日本の「お隣さん」の助け合いを知らない「朝鮮人の元奴婢」達が襲ってくるというのは、生きた心地のしない恐怖だったことは想像に難くない。日本人同士であっても火事場泥棒はあったろうが、愛着の無い外の人が行うことが大多数であったはずで、朝鮮人という「デマ」がまことしやかに伝わったというのは、当然のことであったろう。
しかし、震災で身内の人間が建物で押しつぶされ、生き延びた人々はそれを救出するのに必死で、しかし食べるものもなく飢えて死ぬことを覚悟する中、元気に朝鮮人を6000人探し出して殺せたのは、どこの誰なのか、とても疑問であるし、「被災死者を含む」殺害されたかもしれない数は3000人であって、6000人の朝鮮人を見つけ出すことは無理な状況である。
教科書で教えることに間違いはないと考えられているけれど、しかし現実にはありえない事が書かれているのだと改めて感じる。
以下は引用。
関東大震災
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。
千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。
wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
被害記録
・罹災:一府六件、当時の人口1175万人(現在4000万人)
・マグニチュード:7.9(阪神大震災:7.3)
・死者、行方不明:104,619人(阪神大震災:5,502人)
・家屋被害 :296,206戸(阪神大震災:100,282棟)
| 府県 |
家屋
|
死者
|
|
全壊
|
焼失
|
| 東京府 |
16,684
|
300,924
|
70,387
|
| 神奈川県 |
46,719
|
237,338
|
32,838
|
| 千葉県 |
12,894
|
0
|
1,346
|
| 埼玉県 |
315
|
0
|
343
|
| 山梨県 |
20
|
0
|
22
|
| 静岡県 |
150
|
0
|
444
|
http://www.ads-network.co.jp/zatugaku/saigai-07.htm
折りしも加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため「首相不在」という異常事態下での災害であった。当時東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱した事で印刷機能が崩壊し、更に大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社は焼失してしまい、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで報道機能は麻痺した。通信・交通手段の途絶も加わって関東以外の地域では伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり(ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことである ラジオ#日本初のラジオ放送)、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」・「津波、赤城山麓にまで達する」・「政府首脳の全滅」・「伊豆諸島の大噴火による消滅」などと言った噂やデマが取り上げられた。
デマの中には朝鮮人が「暴徒化[3]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。このデマを流布した首謀者は、時の警視庁官房主事で後に読売新聞社主となる正力松太郎である(正力の項も参照)。震災で焼け出された各新聞の記者が、警視庁官房に食糧や飲料が集まっているという情報を聞きつけ、手に入れようと次々に正力のもとを訪れた。そこで、正力が「朝鮮人暴徒化の噂が流れている」とリークし、鵜呑みにした記者たちが記事にしたことによってデマが広がったのである(後に正力はこれを「虚報」と認めている)[4]。
このような状況のもと、大災害時に情報が遮断された中で朝鮮人の「強奪」「強姦」に怯える日本人は多かった。
時の警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」
と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた(出典は全て『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房。この著書は大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学が伝聞により調査したものを韓国で愛国同志援護会編『韓国独立運動史』としてまとめられ、それがそのまま翻訳されたものである)。
実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した[5]。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された。一方で横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[6]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。
殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2613人余[7]、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られる。内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。
また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚の恩赦で釈放されたという。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。
一方、朝鮮人による犯罪の認知件数は、殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件であった(暗数は不明)。
また、陸軍や憲兵隊の中には、社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件(大杉事件)、労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され平澤は首を切り落とされた亀戸事件、在日中国人指導者の王希天などの殺害事件が起きた。
またその被害の大きさから、一時は遷都も検討されたという。遷都の候補地には姫路や京城などが挙げられた[8]。
脚注
5.^ 壺井繁治の詩「十五円五十銭」。ただし創作以上のものは未確認。
6.^ 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
7.^ 「朝鮮人虐殺事件」吉野作造。
8.^ 中央日報 - 日本「40年代、東京から竜仁に遷都する計画だった」
wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
<在日朝鮮人人口の推移>
在日朝鮮人数 増加人口(数前年比)
1909(明治42) 790
日韓新覚書交換。朝鮮銀行設立。10/26伊藤博文暗殺事件(これをテコに李容九:一進会らが日韓併合運動。脱両班支配に日本利用)
1910(明治43)
8/22朝鮮併合朝鮮総督府設置。(以後、10年間で対韓憲兵警察7000人∴併合反対暴動は少ない)。朝鮮で「土地調査事業」~1918
1911(明治44)
朝鮮銀行法制定。『南朝を正統と定む 善の研究』(西田幾太郎)
1914(大正03)
ドイツに宣戦(第一次世界大戦参加)
1915(大正04) 3989
1916(大正05) 5638 1649
1917(大正06) 1万4501 8863
1918(大正07) 2万2262 7761
第一次世界大戦休戦条約。米価暴騰(関西で米騒動)。朝鮮土地調査終了。
1919(大正08) 2万8272 6010
朝鮮万歳事件(三一独立運動)起こる。李承晩上海に大韓臨時政府組織。在日朝鮮人の急増により付近住民とトラブル→「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」(朝鮮総督府:朝鮮人渡日制限1919.4~1922.12)
1920(大正09) 3万0175 1903
日本、国連に正式加入(常任理事国となる)。朝鮮で「産米増殖計画」(~1934)。間島事件(支那間島地方の朝鮮人の反日暴動を弾圧する為に日本領事館襲撃を機に出兵)
1921(大正10) 3万5876 5693
1922(大正11) 5万9865 2万3989
朝鮮の水力電気調査開始。日本への自由渡航制 (渡日制限解除)
1923(大正12) 8万0617 2万0752
9/1関東大震災。大逆(朴烈)事件
1924(大正13) 12万0238 3万9621
「渡日制限Ⅱ」(移民が後を絶たない為)→釜山港で渡日制限撤廃を訴え5万人集会(5/17)
1925(大正14) 13万3710 1万3472
釜山での日本渡航制限措置(朝鮮総督府:朝鮮人渡日制限1925.10~1938)
1926(大正15) 14万8503 1万4793
6・10万歳運動
1927(昭和02) 17万5911 2万7408
引用データ:
1909 日本帝国年鑑より
1915~44 在日朝鮮人人口動態 内務省警保局統計
http://3666bullitt2999.at.webry.info/201002/article_24.html
(在日朝鮮人の人口推移と重ねて見る①) 近代の日韓関係 -明治維新~終戦まで-
これらを横断的に取り上げたのが、下の記述。
p8
有史以来の大震災に立ち向っていた日本国民が、朝鮮人を「虐殺」したといわれて86年の時間が流れた。
震災に乗じて朝鮮の民族独立運動家たちが計画した不穏な行動は、やがて事実のかけらもない「流言蜚語」であるかのように伝えられてきた。さらに、「虐殺」人数ばかりが大きくなるのは「南京大虐殺」と例を同じくする。
何の罪もない者を殺害したとされる「朝鮮人虐殺」は、果たして本当にあったのか。日本人は途方もない謀略宣伝の渦に呑まれ、そう信じ込まされてきたのではあるまいか。
ここに改めて震災現場に立ち返りつつあらゆる史料を再検証することで、歴史の真相に迫ってみたい。
国難に際するや、必ず現われる「虐殺」という亡霊の正体を暴かずして自虐の原点は潰えないと思うからだ。
[在日朝鮮人の人口推移]
明治42年 790人
大正4年 3,989人
大正5年 56,028人
大正6年 14,501人
大正7年 22,262人
大正8年 28,272人
大正9年 30,175人
大正10年 35,876人
大正11年 59,865人
大正12年 80,617人
大正13年 120,238人
大正14年 133,710人
大正15年 148,503人
昭和2年 175,911人
昭和16年 1,469,230人
昭和19年 1,936,843人
関東大震災当時東京15区部人口約226万5千人郡部人口約174万人合計約405万人横浜市人口約43万9千人約450万人が東京・
横浜に住み関東地方の死者10万5385人京浜地区に在住朝鮮人の推定は9800人程度であったが、日本人の被災者が食料にもありつけないなか、逆に朝鮮人6800人は習志野収容所・各警察署で保護を受けたのである。朝鮮人死者行方不明者3000人のうち233人は自警団に殺害された数字として記録されているが、残りの2800名は震災による死者行方不明者なのか暴徒として殺害されたのかは不明であるが、朝鮮人達の多くは被害が多かった下町に住んでいたことを考えれば、暴徒として誅殺された死者なのか震災での死者か区別がつかない。
自警団での殺害は、略奪強姦の不逞を働いた朝鮮人を誅殺したものである。
①でも説明したように、不逞朝鮮人の蜂起は実際にあったとの記録目撃談が記録されている。3000名の死者行方不明者の中にテロリストも含まれているという。
横浜における目撃者の談話からその一端をみておきたい。p27~29
「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨(ほうこう)した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況(いわ)んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を壇(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛を拉(らつ)し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を斃(たお)したしたが警備隊にも十余人負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残つた市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」(大日本石鹸株式会社専務.細田勝一郎談「河北新報」大正十二年九月五日)
次は
横浜港でパリー丸に救助された判事の遭難記録と品川の住人の目撃談である。
「(二日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。何故危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやつて居る。殊に裁判所附近は最も危険で鮮人は小路に隠れてピストルを以て通行人を狙撃して居るとのことである。若し御疑あるならば現場を実見した巡査を御紹介しましやう』といふ」(「横浜地方裁判所震災略記」パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)
「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に問違はれて殺された者が沢山ありました」
(「北海タイムス」大正十二年九月六日)
こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。だが、これに反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた。
p134~135 自警団の「覚悟」
ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。
今日流通している関東大震災関係の専門書の大部分は「流言蜚語のために自警団等が朝鮮人を虐殺した」という前提に立って書かれている。
何もしない朝鮮人と見られる男が歩いて来たとしよう。
町内壊滅の騒乱状態にあつたとしても、町内会、自警団、青年団員がその朝鮮人をいきなり殺すなどという行為ができるものだろうか。何もしない人間を次々に「虐殺」するなどという行為は、狂気のような指導者がいて洗脳でもされていなけれぱ簡単に実行できるものではない。
だが、仮に爆弾や凶器、毒薬でも持ち歩く集団が町内に入って来たとすれば、自衛のため相手を殺傷する「決意」や「覚悟」が自警団員に発生するのは状況から当然である。そうしなければ自分たちの町が破壊され、妻や子が殺されるのであれば、先に行動を起こすのは正当防衛である。
そうした強い覚悟があってこそ初めて可能な、そして恐らく手を染めたくもない行為をさせることになったケースを「流言蜚語」による「虐殺」とはいわない。それが自警団であろうと、警察官であろうと、彼の最終解決手段は正義といっていい。
普通の生活者である朝鮮人が誤認から殺害されるなどという不幸な例がまったくなかったとは断定できない。さらに調査が必要だろうが、基本的には、襲撃計画を実行しようとした朝鮮人が殺傷されたのだ。
(略)
今必要なのは、現実に朝鮮人による襲撃があったことと、その場合に対してのみ自警団が強い覚悟をもって対処した事実を検証する作業である。
何もしない気の毒な朝鮮人を「虐殺」するようなヒマは自警団にはありはしなかった。だが、誰からも強制されずに最後の覚悟によって自分たちの町内と家族の命を自分たちで護るという決意を持っていたのが大正時代の人々だった。
by king-of-japan
日本最高の刀剣職人は韓国の職…